みなさんから寄せられた思い出

地元の岐阜国体/錦見 玲子さん(瑞穂市)

 昭和40年の岐阜国体。わが町穂積(当時)は女子高校のバレーの競技場としてわが家から百メートル程北の中学校が決まり、その選手達の宿舎も、集落毎に1校ずつと割り当てられて、わが集落は地元岐阜代表の本巣高校を受ける事になった。その3年程前から町民にそのバレーの知識がなくてはと婦人会で集落毎に1チームずつのバレー部ができ、町の職員が土日の休みに指導に来られた。わが集落の小さいお宮の前の広場に桜の木とお宮の玉垣に縄を張ってコートとし、農業の昼休みに寄って練習をし、年に2回程、町内中で対抗試合をした。
 そして、我が家も選手達を3軒に分けられ、18人ずつの布団づくりに忙しく、風呂場の直しやら面会の父兄達の小部屋を玄関の奥に作るやら、又役場の人や色々な大会の連絡など人がひっきりなしに出入りした。そして大会に近くなると地元で近いこともあって体ならしに選手達も土日など泊まって練習して、我が家の子供達も選手に「お姉ちゃん」となつき、可愛がってもらい、我が家も娘達の様に親しんで家族の様になった。そして当日近くもう泊り込んでいる選手の身内やら関係の人がひっきりなしに応援やら面会やら表の部屋などは出入りがはげしく混雑した。そして当日はそれに輪に輪をかけて全国から来られる訳で、駅からの街道は混み合い混み合いで川にかかった橋はあふれるくらいで、我が家も少し道路から離れているが、他県の人達が「一服させてくれ」と立ち寄られ、表の方の縁側の庭の木の下などに腰を降ろして一服する人達で、見知らぬ人ながら寄って頂いたという嬉しい気持ちで冷茶など出したりした。
 当日は天皇・皇后陛下の御臨席もあった様で、後から役場などで貼られた写真などで知った。我が家の選手達は1回戦で惜しくも破れ、力を落として帰って来て心配したが先生は「大丈夫です。一晩寝ればケロっとしますから」と言われたが、その通り明くる日は元気になって他の県のチームと応援して夕方帰って行った。大会が終わって農繁期にも入っていたのに町中が、人がいないかと思う位静かで太陽だけがぼんやりとうつろに照っていた。そして菊友会ができて丹精こめた黄色の大輪の鉢植えの菊が庁舎や家々の軒先に静かに残されていた。
 選手の子達も何年もあとまでも手紙をくれていた。やはり選手を預かった際の80歳の年寄りが「私は選手の子の風呂たきを引き受けています」と一役買っている事に嬉しそうに胸を張って言った言葉が忘れられない。