みなさんから寄せられた思い出

昭和40年岐阜国体の思い出/古田 政春さん(東白川村)

 経済成長著しい昭和35年、私は教育委員会へ出向を命ぜられて社会教育と社会体育を担当させられた。
そして、社会教育主事資格を取得するため38年6月から2ヶ月間、名古屋の妹の家へ泊まり込み名古屋大学での講習へ出ていました。その間、土曜日には家へ帰り、日曜日に事務所へ出て滞った事務処理を済ませ、トンボ帰りで名古屋へ向かい、月曜には主事講習という、まさに寸分の余裕もないような毎日を送っていた。
昭和39年は東京オリンピックが開催され、新幹線の開通など建設ラッシュで社会全体が右肩上がりの好景気で活気に満ちており、その中で岐阜国体開催にかかる準備が刻々と進められ、主事講習を終えた私には岐阜国体の仕事を総て抱え込むことになり、日夜奔走した記憶が蘇ってくる。
東京オリンピック後の40年岐阜国体を、私達の地域から如何にして応援参加出来るのか、みんなの目線をいかにして岐阜国体へ向けさせるかと腐心したことが、今でも頭の隅に印象深く焼き付いている。
「時間を守ろう」「花で飾ろう」など、県民が共通し国体を盛り上げるための七つの運動を、4メートル四方の大看板に掲げたり、岐阜国体旗の小旗を配布し各家庭の玄関に掲げてもらい、県民全員が国体へ参加しているという認識を深めてもらうなどして徹底を図った。
その甲斐あって皆さんが運動の主旨を理解してくれ、真っ赤なサルビア、真っ黄色のマリーゴールドの花が何処の家の玄関にも競うように咲き誇り、沿道には各自治会、社会教育団体などが総力を挙げて協力してくれ、岐阜国体開催の前後は花が咲き誇っていた喜びは忘れることができない。
今は「花いっぱい運動」などに呼び名は変わっているが、県内各地を車で走り沿道に真っ赤なサルビア、真っ黄色のマリンゴールドが目にとまると、40年岐阜国体が髣髴として走馬燈のように頭の中を駆けめぐり、懐かしさで一杯になる。
また、「時間を守ろう」の運動も県下の総ての機関や組織、団体へ徹底され、45年を経過した現在はそれが社会生活の当たり前のルールとして守られており、岐阜国体で得たものの大きさに感慨深いものがある。
2012年の「清流国体」が40年岐阜国体の時のように、期間中は日本晴れで多くの皆さんが感動する大会であることを心からお祈りし、私の拙い思い出を写真と一緒にお届けします。

 

昭和40年10月10日 私の村での「国体旗リレー」の模様を記録した写真です。

 

小学校校庭

 

小学校校庭でリレー関係者に説明している私です。

白バイ先導

 

白バイ・パトが先導し、国体旗リレーがスタートしました

国体旗リレー

 

各家庭には国旗や国体マーク入りの提灯が吊るされ、国体旗の小旗を振ってみんなでリレーの走行を歓迎しています。

国体の看板を掲げた車両

 

 

「第20回国体」の看板を掲げた車両が国体旗リレーを先導しています。

国体旗リレー選手

 

いよいよ国体旗リレー選手がやってきました。雲一つない日本晴れのすばらしい日和です。

国体旗リレー

 

先頭でチームをリードするのは村会議長、国体旗を納めるリュックを背負うのは村長、その後に国体旗がリレー選手に守られて大勢の歓迎を受け走っています。

走り去った後

 

国体旗リレーが走り去りました。

車の後ろ姿をみても時代の経過を感じさせます。

【炬火リレーの思い出写真】

今から45年も前の「第20回国民体育大会秋季大会」のことですから、写真や大会に関係する品物が残っていたからこそ思い出すことができました。

炬火リレーも思い出の一つで、私が担当したのは七宗町神渕地区での炬火中継で、リレーを引き継ぐリレー隊の中継の号令を緊張してかけた記憶が蘇ってきました。

 

炬火トーチ

 

その時リレーした炬火トーチ

集合写真

 

1965(昭和40)年10月23日、私の村の青年12名による「国体炬火リレーチーム」が神渕地区での炬火リレーを無事終えて記念に撮った1枚です

村長と古田さん

 

炬火を掲げる村長と私

入場証

 

国体への関心は高く、参加希望者は多数で、抽籤で参加希望の順番を決め、バスを連ねて出かけました。
フラッグ 手元に国体に関する品物がまだあったと記憶していますが、16年ほど前に家を建て替えた時、何処かへ紛れ込んでいると思われるので、これを機会に探し出し当時を偲んでみたいと思っています。